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邪馬台国とは3

魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりが書かれている。だが、不弥国までその記述を辿った所で問題が発生する。記述の通り南に向かって水行10日陸行1月の距離を進むと邪馬台国が海の中になってしまうのだ。 元々、邪馬台国の位置については大和だとする説が普通だった。しかし江戸時代になって九州説が出現し、明治時代後半から魏志倭人伝の解釈について畿内説と九州説が争われるようになった。 九州説では陸行1月を陸行1日と改めるなどすれば邪馬台国はきちんと九州におさまるし、畿内説では南へ向かうという記述を東の誤りだと考えればつじつまがあった。また、論争の他にも卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡の分布が大和中心であったり、魏志倭人伝の様子を思い起こさせる吉野ヶ里遺跡が佐賀県で発見されるなど、それぞれの説の証拠の様なものが発見されており、邪馬台国の位置は未だにはっきりしていない。

卑弥呼の死について

中国の歴史書の記述から卑弥呼は247年から248年の辺りで亡くなったと思われる。年齢は80歳以上だっただろう。 作られた墓は直径150mの巨大なものだったらしい。奈良県の箸墓古墳などが卑弥呼の墓ではないかと言われているがやはりはっきりしない。 その後、邪馬台国を治めた台与が西晋に使者を送ったという魏志倭人伝の記述が邪馬台国に関する最後のものだ。

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